高倉健の実家の場所は中間市!兄弟や両親など家族情報もまとめた!

俳優の高倉健(たかくらけん)さん。

高倉健

25歳だった1956年にデビュー後、任侠映画の看板スターとなり、「八甲田山」や「幸せ
の黄色いハンカチ」「鉄道員」
などに主演しています。

そんな高倉健さんの実家やお父さん、お母さんはどんな方達なんでしょうか?

今回は高倉健の実家の場所は中間市!兄弟や両親など家族情報もまとめた!

という事で、高倉健さんの実家や両親、兄弟姉妹など家族についての情報を調べました。

目次

高倉健の実家はお金持ち?

まずは高倉健さんの実家について調べてみました!

高倉健の実家の場所は福岡県中間市

高倉健さんの実家は、福岡県中間市です。

福岡県中間市
出展:https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E9%96%93%E5%B8%82/@33.8193963,130.6905224,14z/data=!4m6!3m5!1s0x3543cddaaee24d1d:0xfea745faf10bad8!8m2!3d33.8163036!4d130.7089788!16zL20vMDF3cHpr?entry=ttu

高倉健さんの故郷である中間市は、福岡市と北九州市の間に位置し、筑豊炭田の一角をなしている街です。

中間市の中央を流れる、遠賀川の水運によって栄えました

明治時代より、炭鉱の大勢の働き手のストレスを発散させるため、駅を中心として歓楽街が作られました。

高倉健さんは少年時代に、昭和の初めに開館した毎日館(第二毎日館)と、1932(昭和7)年に開館した東洋観を遊び場にしていたといいます。

なお高倉健さんの実家については、詳細な住所は分かりませんでした。

高倉健さんは、映画が身近にいる環境において育ったということですね。

高倉健の実家はお金持ち?

高倉健さんの実家は裕福だったことが考えられます。

小学校の頃には、周りの子供たちが裸足で登校する中、高倉健さんは革靴に革のランドセルを背負っていたというエピソードがあります。

昭和6年生まれの高倉健さんが小学生の頃には、ちょうど第二次世界大戦(昭和14年開戦)が起こっていました。

そうした時期には、全国的に物資が足りなくなっていたことが考えられます。

それでも革の靴を買ってもらえて、ランドセルも用意してもらえていたのは、裕福であった証拠ではないでしょうか。

上記の情報を総合すると、高倉健さんの実家は少なくとも裕福なご家庭と考えて間違いないでしょう。

高倉健の実家の両親(父・母)はどんな人?

高倉健さんの実家のお父さん、お母さんについても調べました!

高倉健の父親は海軍軍人!

こちらはフォトエッセイ「想」に掲載された、幼い高倉健を膝に乗せた父親の画像です。

恐らく自宅で撮影されたものと考えられます。

高倉健と父親
出展:https://hayarinikki.blog.ss-blog.jp/2014-11-21

高倉健さんの父親・小田敏郎さん旧日本海軍の軍人でした。

16歳で海軍に入り、戦艦『比叡』の乗り組み員などを経た後は炭鉱夫の取りまとめ役などをしていました。

筑豊の炭坑王と呼ばれた、伊藤伝右衛門さんが経営していた中鶴炭鉱や宝珠山炭鉱の幹部社員を担っていたのです。

小田敏郎さんの年齢や学歴などの詳細は不明となっています。

高倉健の母親は教員

以下の画像は、赤ん坊の高倉健を抱いている母親の画像です。

こちらも、フォトエッセイ「想」に掲載されたものです。

高倉健と母親
出展:https://hayarinikki.blog.ss-blog.jp/2014-11-21

高倉健さんの母親は小田タカノさんといい、教員をしていました。

小田タカノさんは90歳まで生きたといい、その点は高倉健さんの実妹・森敏子さんが明かしています。

小田タカノさんが教員として、何を教えていたのかは分かりません。

また生年月日や学歴なども不明となっています。

高倉健の両親のエピソードも紹介!

続いては、高倉健さんのご両親についてのエピソードを見ていきましょう。

高倉健が父親について語っていた

高倉健さんが2006年に出版したフォトエッセイ集『想』において、父親について語っていました。

父は海軍軍人だった。その後、築後の宝珠山という炭鉱に勤め、炭鉱労働者たちを束ねる仕事をしていた。・・・・僕が中学生の頃は家に滅多にいなかった。夏休みや冬休みになると、兄と僕は必ず父に会いに行った

https://smc12830102.seesaa.net/article/387862041.html#:~:text=%E6%95%8F%E9%83%8E%E3%81%AF%E4%BF%B3%E5%84%AA%E9%AB%98%E5%80%89%E5%81%A5,%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

高倉健さんによると、父親に関して

高倉健さん

僕が中学生の頃は家に滅多にいなかった。夏休みや冬休みになると、兄と僕は必ず父に会いに行った

のだと述べています。

また高倉健さんの父親は、若い時に相撲で鍛えており、「亀ケ嶋」という四股名まで持っていたエピソードがあります。

上記画像を見ても、相撲取りといった感じであり、がっしりししており肉の締まった恰幅の良い体形であることが分かりますね。

なお高倉健さんは、父親の持っていた絹糸でつくられた黒繻子(しゅす)のまわしを校庭の相撲場に持ってきたことがありました。

この件については、小学校当時の同級生である千々和延吉さんが語っています。

そして父親・小田敏郎さんは、他にも上述の通りに中嶋炭鉱の労務を担当していました。

「西日本新聞」の「聞き書きシリーズ」第一港運社長岡部宏輔「洞(くき)の海に生きる」にも、小田敏郎さんの話が登場します(時期は不明)。

「洞(くき)の海に生きる」では、

敏郎さんは昭和十八年に若松の港湾運送の会社が一つに統合され若松港運になったとき労務担当として、伊藤傳右衛門さんが持っていた大正炭鉱からスカウトされて、移ってきたのでした

と明かされていました。

小田敏郎さんの名前は、他地域にまで聞こえるほどだったことが分かります。

また父・敏郎さんの訃報が届いた時に、高倉健さんは1976年に公開された映画『君よ憤怒の河を渉れ』の撮影をしていました。

訃報を聞き急いで飛行機で帰ろうとしたものの、全日空のストライキの影響により飛行機が欠航となってしまったのです。

やむを得えず高倉健さんは、急行電車で7時間もかけて京都から九州に向かったといいます。

高倉健さんは、神社で営まれた父親の葬儀に間に合ったのでした。

母親は「私の息子は日本一になった」

実の妹である森敏子さんによると、小田タカノさんは「私の息子は日本一になったんだよね」と言っていたといいます。

森敏子さんが高倉健さんに「(母親に)親孝行できたね」と言いと、高倉健さんは『そうかぁ』と言って笑ったのでした。

こちらのエピソードは、高倉健さんの息子としての一面が垣間見ることができます。

また俳優の武田鉄矢さんは、公演などで近くに寄った際に、高倉健さんの母親に招かれて、ご馳走になったことがあります。

その際に、母親は1977年の映画『幸福の黄色いハンケチ』に息子・高倉健さんが出演したことを大変に喜んでいました。

そうしたことで、『幸福の黄色いハンケチ』で共演した武田鉄矢さんにも感謝の言葉をかけてくれたのでした。

そして高倉健さんは、1993年にエッセイ集『あなたに褒められたくて』を出版しています。

タイトルに登場する”あなた”とは、高倉健さんの母親である小田タカノさんを指すのです。

高倉健さんというと、作品において雪山での厳しい撮影があり、気を張る役柄も多数ありました。

そうした大変な俳優人生も、全ては母親に褒められたい一心で頑張ってきたのだと、高倉健さんはエッセイ集の中で明かしています。

高倉健さんが、母親を大事に思っていたことが分かるエピソードです。

さらに母親・タカノさんが亡くなった当時、高倉健さんは1989年公開の映画『あ・うん』の撮影をしていました

最愛の母の葬儀に参列することがでなかった高倉健さんは、歯を食いしばり撮影を続けたのだといいます。

なお2013年に、高倉健さんは文化勲章を受章しました

この際には、母・タカノさんの口癖「辛坊ばい」について会見で語り、母親への深い思いを表したのでした。

高倉健の兄弟姉妹も調査!

高倉健さんに兄弟や姉妹がいるかどうかも調査しました!

高倉健の兄弟は(兄・妹・妹)!!

高倉健さんには(兄・妹・妹)がおられます。

高倉健さんには上に兄・昭二さんがいて、下に2人の妹がいます。

1987年に兄・昭二さんは亡くなっており、直ぐ下の妹が2007年に亡くなっています

現在は、妹の森敏子さんが福岡県に在住しているのです。

兄に捧げる句集を出版

こちらの画像は、高倉健さんの妹・敏子さんの出版された句集と、敏子さんご本人です。

2021年に西日本新聞meに掲載されたものです。

高倉健さんの妹
出展:https://www.nishinippon.co.jp/item/n/716983/

高倉健さんの妹である敏子さんは2021年の時点で85歳であり、福岡県小竹町にお住まいです。

敏子さんは、2020年11月の高倉健さんの七回忌に合わせて、句集「飛花落花(ひからつか)」を出版しました。

兄にささげたい」との思いから、敏子さんは句集の出版に至ったのです。

敏子さんは、高倉健さんから

高倉健さん

見せる句ではなく、見える句を詠め

と言われていたといいます。

句集「飛花落花」には、

  • 炎天の漢(おとこ)を強く記憶せり
  • 寂し寂し寂し寂しと星流る

などの句が収められています。

敏子さんは、

敏子さん

難しい言葉をなるべく避けて、俳句に親しみがない人にも読みやすい句を集めた。多くの高倉健ファンに読んでほしい

と述べられていました。

甥がインタビューを受けている

以下の画像は、高倉健さんと妹の敏子さん、甥の森健さんです。

実家でくつろいでいた時のショットであり、2020年にデイリー新潮のインタビューに掲載されたものです。

高倉健さんと妹
出展:https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11101100/?all=1

高倉健さんには妹・敏子さんの息子である甥・健さんがいます。

健さんはデザイナーの仕事をしており、2020年の時点で54歳となっています。

そして2020年に、デイリー新潮のインタビューに答えていました。

だから古い親戚には『たけちゃん』と呼ばれていました。高校に入るときに、自分で『ごういち』と名乗るようになった。東筑高校に在学中、英語教師の安永先生が、音読みの方が通りが良いからゴウイチにしろ、と。皆んなもそう呼べと指示して決まったそうです。なんとも大らかと言うか昭和と言うか

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11101100/?all=1

甥の健さんによると、高倉健さんは「たけちゃん」と呼ばれていました。

また、高校生からは「たけいち」から「ごういち」に本名の呼び方を変えていたのです。

そのため、いつからの高倉健さんの知り合いなのか、呼び方で分かるということになります。

また健さんは、

“おれは(高倉健さんの)親戚だ”というような人で、『ごうちゃん』という人がいたら、それは嘘だなとわかります

と述べていました。

それは、古くから高倉健さんを知っている親戚の方などは「たけちゃん」と呼んでいたからです。

高倉健さんは、強い印象を持たせたいという思いから、名前を「ごういち」と呼ばせるようになったのでしょうか。

まとめ

今回は高倉健の実家の場所は中間市!兄弟や両親など家族情報もまとめた!

という事で、高倉健さんの実家や両親(父・母)、兄弟姉妹など家族についての記事をお届けしました。

  • 高倉健さんは福岡県中間市の出身であり実家は裕福だった。
  • 高倉健さんの父親は海軍の軍人であり、母親は教員だった。
  • 高倉健さんの兄と直ぐ下の妹は亡くなっており、もう一人の妹は句集を発表した。

以上の内容がわかりました。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

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