プロ野球選手の佐々木朗希(ささきろうき)投手。
「令和の怪物」として高校時代から注目され、2020年に千葉ロッテマリーンズに入団すると2年目から1軍で活躍、2023年には日本代表としてWBCにも出場しています。
そんな佐々木朗希投手のお父さんはどんな方なんでしょうか?
今回は佐々木朗希の父は死因は震災…顔画像や経歴に親子エピソードもまとめ
という事で、佐々木朗希投手の父親についての情報を調べました。
目次
佐々木朗希の父は震災で亡くなった
佐々木朗希投手の父親は、2011年3月11日に発生した東日本大震災により亡くなりました。
佐々木朗希の父・佐々木功太は、東日本大震災で発生した津波により死去
東日本大震災発生当時の佐々木朗希投手や父親に関する情報をまとめました。
佐々木朗希の父・佐々木功太と祖父母は、東日本大震災で発生した津波により死去
佐々木朗希投手が小学校4年生となる直前の2011年3月11日、東日本大震災が発生。
地元・陸前高田市は、直後に発生した大津波により壊滅的な被害を受けました。
この津波によって、佐々木朗希投手は、
祖父・佐々木功(ささきいさお)享年71歳
祖母・佐々木勝子(ささきかつこ)享年69歳
以上3人もの家族を同時に失っています。
震災発生当時、佐々木朗希投手は兄・佐々木琉希(ささきりゅうき)さんと弟・佐々木怜希(ささきれいき)さんと共に高台へ避難。
避難先で一晩を過ごしたのち、翌朝に母・佐々木陽子(ささきようこ)さんと再会できました。
母・佐々木陽子さんは、保険会社の営業担当者で自宅から離れた営業先にいたため無事だったそうです。
父・佐々木功太や祖父母の訃報は、母・佐々木陽子が避難先で受けた
佐々木家の自宅は津波で流されたため、母・佐々木陽子さんと息子3人は隣の大船渡市にある親戚宅へ避難。
母・佐々木陽子さんは、当時を振り返り、
(家族全員が揃わないことに)覚悟した
と、語っています。
家族全員が不安ななか、震災から5日後の3月16日。
母・佐々木陽子のもとに、父・佐々木功太さんの遺体が見つかったとの連絡がありました。
電話口から聞こえた、
見つかりました
という言葉に佐々木朗希投手は、
見つかったの?!
と、目を見開いて尋ねます。
母・佐々木陽子さんは、今でもその時の佐々木朗希投手の表情を覚えているのだそう。
なお、祖母・佐々木勝子さんの遺体は3月17日に発見され、祖父・佐々木功さんは未だ行方不明のまま。
父・佐々木功太さんや祖父母を亡くした佐々木朗希投手は、あまりに過酷な現実を受け止め切れず、暫く会話ができない状態が続いたそうです。
佐々木朗希の父の顔画像や経歴は?
佐々木朗希投手の父・佐々木功太さんに関する情報をまとめました!
佐々木朗希の父・佐々木功太は、葬儀会社勤務で野球経験はなかった
佐々木朗希投手の父・佐々木功太さん。
優しそうな笑みを浮かべていますよね。
父・佐々木功太さんについて明らかになっている情報は次の通りです。
職業…葬儀会社勤務
趣味…スノーボード
スポーツ経験…バスケットボール
佐々木朗希投手は身長192cmの長身と長い手足が特徴的ですが、父・佐々木功太さんも181cmと長身!
佐々木朗希投手の恵まれた体格は、お父さんゆずりなのかもしれませんね。
佐々木朗希の父・佐々木功太は、思いやりに溢れ信頼される人物だった
父・佐々木功太さんは、地域から愛される人物だったと周囲の人が明かしています。
佐々木朗希投手の故郷・陸前高田市の夏の伝統行事「うごく七夕」などの地域の催しで、父・佐々木功太さんは盛り上げ役を買って出ていたのだとか。
そんな人情溢れる父・佐々木功太さんは地域の有名人。
地元では佐々木朗希投手のことを、
あの功太の、3人息子の真ん中の子
と、認知している人も多いのだそう。
家族で通っていた中華料理店「四海楼」の店主・長田正広さんからは、
(差し入れの)鍋を持っていくとさ、夜8時ごろかな。(佐々木朗希の父)功太が「御礼にこれどうぞ!」ってアワビの刺し身を持ってきてくれて
と、日頃のお礼の品を贈るなど、思いやりに溢れていた様子が明かされています。
更に、父・佐々木功太さんは陸前高田市の元市長・戸羽太さんとも面識があり、
(父・佐々木功太は)有言実行の人。仲間作りが上手な人だった。気さくで行動力があって、先輩も後輩も皆がついていった。
と、戸羽太さんからは信頼される人物であったと評されていました。
そして、息子である佐々木朗希投手自身は、
僕が言うのもあれですけど、(父・佐々木功太は)誰とでもすごく仲良くしていて。皆に愛されていたのかなあ、と思います。
と、明かしています。
周囲の人から信頼され、愛される人柄であったことが窺えますね。
佐々木朗希の親子エピソードもまとめた!
佐々木朗希投手とご両親のエピソードをまとめました!
佐々木朗希の親子エピソードまとめ!
佐々木朗希投手とご両親にまつわるエピソードをご紹介します!
父・佐々木功太は野球経験はなかったものの、息子たちの練習相手を務めていた
佐々木朗希投手は兄・佐々木琉希さんの影響で、地元の高田野球スポーツ少年団に入団。
父・佐々木功太さんは野球経験はないものの、チームの練習でノックを打ったり、捕手役を務めたりすることもあったそうです。
佐々木朗希投手は父・佐々木功太さんと、キャッチボールをよくしていたのだとか。
当時を知る高田野球スポーツ少年団の村上友幸元監督は、
家ではお父さんが毎日のようにキャッチャーをして、息子たちが投げ込んでいた。震災後の大変な時期でも野球を続けたのは、お父さんとの思い出もあるんじゃないかな。
と、佐々木朗希投手ら兄弟が野球を続けられた理由について語っていました。
東日本大震災後、佐々木朗希投手と家族は母・佐々木陽子さんの親族の住む大船渡市に転居。
老人ホームでの生活を余儀なくされ、当時9歳の佐々木朗希投手は想像を絶するほどの悲しみを抱えていました。
それでも、
やっぱり野球してる時が一番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで、大変な時もつらい時も頑張れた。本当に野球があって、野球を知れてよかったと思う。
と、父・佐々木功太さんが教えてくれた野球の楽しさを支えに、頑張ってこれたと明かしています。
大船渡市の少年野球時代のチームメートは、
(佐々木朗希は)震災に関しての弱い部分は、あまり見せなくて。僕らに気を遣われるのも嫌だったのかなと思います。
と、佐々木朗希投手が気丈に振る舞っていたと語っていました。
辛い環境に置かれた佐々木朗希投手にとって、野球はなくてはならないものだったんですね。
父・佐々木功太は、佐々木朗希がプロ野球選手になれると信じていた
2021年、東日本大震災の発生から10年を迎えるにあたって、
10年という節目だけど、僕にとっては毎年、忘れることはなかった。3月11日は毎年、特別な日なんです。
と、佐々木朗希投手は明かしています。
様々な思いや記憶が湧き上がるのでしょうね。
そんな佐々木朗希投手は幼少時代、キャッチボールをしていた父・佐々木功太さんが、
朗希は凄い!将来、プロになれる
と、予言していたことを告白。
プロ野球選手として活躍していることを、父・佐々木功太さんはきっと喜んでいることでしょう。
佐々木朗希の母・佐々木陽子の教育方針は「息子たちを大きく育てる」
東日本大震災後、母・佐々木陽子さんは女手一つで息子3人を育ててきました。
子育ての方針について尋ねられた母・佐々木陽子さんは、
特に何もしていない。子どもたちの希望に応えるようにしていた。
と、答えています。
ただ、
息子たちを大きく育てる
ということは意識していたのだそう。
そのために実践していたのは、よく食べよく寝ること!
佐々木朗希投手は年間で10kgの増量に成功したこともありました。
佐々木朗希投手の身体的な特徴は遺伝によるところが大きいとは考えられます。
しかし、今の佐々木朗希投手があるのは、母・佐々木陽子さんの努力によるところが大きいと言えるでしょう。
佐々木朗希から母・佐々木陽子へのプレゼント
2011年5月、小学校4年生になった佐々木朗希投手。
その年の母の日は、100円ショップで購入したタオルハンカチを母・佐々木陽子さんへ贈りました。
母・佐々木陽子さんはとても喜んでいたそうです。
また、翌年の母の日は、仮設住宅から新居に引っ越したばかりの時期でした。
ロールケーキを購入した佐々木朗希投手は、夕食後のサプライズプレゼントとしてロールケーキをガレージに隠したそうです。
そして、2021年5月27日。
プロ2年目で初勝利を飾った佐々木朗希投手はヒーローインタビューで、
(ウイニングボールは)両親に渡したいと思います
と、コメント。
その様子をテレビで観た母・佐々木陽子さんは、「両親」の言葉で号泣したそうです。
実際に試合後、ご両親の手に渡ったウイニングボールは、実家の仏壇に飾られているのだとか。
佐々木朗希投手がプロ野球選手になることを待ち望んでいたご両親にとっては、最高のプレゼントですよね。
まとめ
今回は佐々木朗希の父は死因は震災…顔画像や経歴に親子エピソードもまとめ
という事で、佐々木朗希投手の実家や両親、兄弟姉妹など家族についての記事をお届けしました。
- 佐々木朗希の父・佐々木功太と祖父母は、東日本大震災で亡くなった
- 佐々木朗希の父・佐々木功太は、思いやりに溢れ信頼される人物だった
- 佐々木朗希と両親のエピソードまとめ!
以上の内容がわかりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。