女子スピードスケート日本代表の押切美沙紀(おしぎりみさき)選手。
2014年ソチオリンピック、2018年平昌オリンピックに出場。
今回で3回目のオリンピック出場となりメダルへの期待が高まります。
今回はそんなオリンピック常連選手である押切美沙紀選手の両親や兄弟。
気になる実家や出身地など家族の情報を調査します。
押切美沙紀の出身地や実家はどこ?
押切美沙紀選手の出身地は北海道中札内村(なかさつないむら)。
農業が盛んな地域で、北海道の村の中で人口が一番多いそうです。
スケートを始めたのは小学校1年生の時。
出身地も近く、同学年だったことから、「髙木菜那」選手とはライバル関係にあったようです。
中学校は区内にある「中札内村立中札内中学校」に入学。
どうやら中札内村では唯一の中学校のようですね。
中学時代の押切美沙紀選手は、全国中学校スケート大会で優勝しています。
その後「駒澤大学付属苫小牧高等学校」に進学。
偏差値45~60ほどで、卒業生にはスピードスケートの「髙木沙羅」選手や、楽天イーグルスの「田中将大」選手もいます。
押切美沙紀選手は、2010年(高校2年)にインターハイの500mで優勝。
同年3月にモスクワで開催された、世界ジュニアスピードスケート選手権大会 チームパシュートで銀メダル獲得。
2011年高校3年時、最後のインターハイでは、500mと1000mで2冠を達成しました。
高校卒業後はスケートに専念するために大学へは行かず就職の道を選びます。
あの「富士急ハイランド」でお馴染みの「富士急行」に入社。
そして同社のスケート部に所属。
【2014ソチ五輪、2018平昌五輪】2大会連続出場🇯🇵
📍全日本スピードスケート距離別選手権
2020年 3000m 優勝🏆
📍アジア冬季競技大会
2017年(札幌) 1500m 2位🥈/チームパシュート 優勝🏆#Since1968#TeamFUJIQ#チーム富士急#富士急行スケート部 pic.twitter.com/vqp8LAvPRW
— 富士急行スケート部 (@fujiq_skate) November 4, 2020
そこで短距離・長距離の両方に対応できる「オールラウンダー」を目指します。
入社2年目には、2013~2014年「ジャパンカップスピードスケート競技会」1000mで優勝。
2013年、ソチオリンピック出場を決める大会「日本代表選考会」1500mで3位。
オリンピック初出場を決めます。
しかし結果は22位。ソチオリンピックで日本はメダル0でおわりました。
惨敗だった日本は、スケート大国オランダから「ヨハン・デビッド」コーチを招聘します。
食事の量、睡眠時間も管理。
あまりの厳しさから「中学生の部活みたい」と不満が出るほどだったそうです。
ヨハン・デビッドコーチを迎えた結果。
2015年10月の全日本距離別選手権で大会新記録で優勝。
同年11月に行われた、ワールドカップ・ソルトレイクシティ大会で日本新記録(6位)を出した。
その後は怪我や体調不良で苦しむも、平昌オリンピック出場を決める「代表選考会」。
5000mを7分10秒68で優勝。
2度目のオリンピック出場を決めました。
2018年平昌オリンピックでの結果は5000mで9位。
前回のソチオリンピックよりもかなり順位は上がりましたね。
今回の北京オリンピックで3度目の出場となり、押切美沙紀選手の地元中札内村でも村を挙げて応援しています。
ぜひ地元・中札内村にメダルを持って帰って来てほしいですね。
押切美沙紀の両親(父・母)はどんな人?
押切美沙紀選手のお父様の名前は「押切敏則」さん、年齢は58歳です。
お母様は「押切春美」さん。年齢は55歳になります。
ご両親はスケートやスポーツをやっていなかったのか、名前以外の情報がありませんでした。
職業などもわかりません。
こちらの写真は押切美沙紀選手初となるオリンピック出場時のものです。
地元中札内村の「中札内文化創造センター」でのパブリングビューイングには100人もの人が集まりました。
試合観戦後、母・春美さんは
「全力は出し切れたと思う。お疲れ様、よく頑張ったねと言ってあげたい」
とインタビューに答えています。
幼少期からスケート一筋で駆け抜けてきた娘の初の大舞台。
結果よりも今までのその努力を思うと、ご両親としては胸がいっぱいだったのだと思います。
こちらは2018年平昌オリンピック出場が決定した際。
押切美沙紀選手を応援しようと村内の児童・生徒が作ったメッセージや横断幕です。
現地に駆けつけることが出来なかった押切選手に代わってご両親が受け取っています。
この平昌オリンピック後、押切美沙紀選手は2年ほど競技から離れ実家へ帰ります。
理由は2016年にした怪我。練習中の転倒で左股関節を負傷しました。
そのため平昌オリンピックでも思うように滑れず、一位の選手と17秒もの差がついた。
自身の限界に悩み、精神的に追い込まれてしまいました。
疲れ切った押切美沙紀選手に、ご両親は深くは聞かず再びスケートリンクに立つことを信じ、見守ったそうです。
それから2年後、時間はかかりましたが周囲の支えもあり見事復帰。
父・敏則さんは「所属チームが休部扱いにしてくれたり、ナショナルチームも名前を残してくれたことが本人の復帰を後押しした」と語っています。
その後2021年12月31日に開かれた「北京オリンピック選考会」。
5000mで7分4秒31の国内最高記録を達成。
父・敏則さんは会場で大きくガッツポーズを決めたそうです。
「声を出す応援は控えるように言われていたが、思わず叫んだ」
んだとか。
挫折を味わった娘の見事な復帰。
落ち込む娘を間近で見ていただけに色々な思いがあったのでしょう。
本人以上に喜んでいた様子が伝わりますね。
押切美沙紀に兄弟や姉妹は居る?
押切美沙紀選手には「妹」が一人います。名前は「押切麻李亜」さん、現在27歳です。
妹・麻李亜さんもスピードスケート経験者だそうで、小学校1年生から打ち込んでいました。
スピードスケートの腕前は姉の押切美沙紀選手に負けないほどだったそうです。
2008年、中学2年時に陸上も始めスケートと陸上との二刀流になります。
2010年「帯広南商業高校」に進学。
当時のコーチに「ボブスレー」を進められます。
高校時代は陸上とボブスレーに打ち込み、卒業後にボブスレー一本に専念。
ボブスレーでは先頭のパイロットとして活躍。
2012年「ユース冬季五輪」では8位。
2017年「世界選手権」(ドイツ)では日本勢最高の7位を獲得。
平昌オリンピック出場有力候補となるが惜しくも出場を果たすことはできませんでした。
失意のどん底だった麻李亜さん。
以前から親交のあった北海道のラグビーチーム「バーバリアンズ」に誘われ、ニュージーランドでの留学を決意。
2019年4月。
「北海道バーバリアンズディアナ」に所属することとなります。
当時はボブスレーとラグビーの2種目でと考えていたそうです。
「やり始めたら難しくてちゃんとラグビーに専念してやりたい」と言う本人の意思からラグビー一本に専念することに。
ラグビーを始めたきっかけも、すべては「五輪を目指すため」。
「やるからには上を目指す」と熱く語っています。
押切は「ラグビーを始めたのも五輪を目指すため。やるからには上を目指したい」。
出典:https://hochi.news/articles/20190411-OHT1T50211.html?page=1
押切美沙紀選手も妹の麻李亜選手も、姉妹そろって本当に運動神経がいいんですね。
オリンピックに出るために種目を次々変えることが出来るのも、身体能力が高い証拠ですよね。
姉妹でオリンピックに出る日を楽しみにしています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
押切美沙紀選手の両親や兄弟、実家や出身地など家族の情報について調査しました。
北海道中札内村と言う小さな村から、オリンピック選手。
しかも今回の北京オリンピックで3度目の出場。
村を挙げて応援している姿がとても微笑ましかったです。
ご両親も、成功と挫折を繰り返した娘を優しく見守る姿。とても感動しました。
ついに始まった北京オリンピック。
押切美沙紀さんが何色のメダルを持って帰るか楽しみですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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