シンガーソングライターの竹内まりや(たけうちまりや)さん。
「駅」「元気を出して」などの名曲で知られ、作曲家としても多数の楽曲を提供されています。
そんな竹内まりやさんの実家やお父さん、お母さんはどんな方達なんでしょうか?
今回は竹内まりやの実家は竹野屋旅館!父母の顔画像や兄弟姉妹もまとめた!
という事で、竹内まりやさんの実家や両親、兄弟姉妹など家族についての情報を調べました。
目次
竹内まりやの実家はお金持ち?
まずは竹内まりやさんの実家について調べてみました!
竹内まりやの実家の場所は島根県出雲市にある竹野屋旅館
竹内まりやさんは、現・島根県出雲市大社町杵築南出身。
実家は出雲大社の目の前にある、1877年創業の老舗旅館「竹野屋旅館」。
竹野屋旅館は創業当時から現在まで変わらず現在の場所に位置しています。
一時経営難に陥りましたが、リニューアルを機に人気旅館として復活。
料理は地元・島根の素材を生かしたこだわりの懐石料理で、客室は1929年に建てられた当時の面影を残しています。
館内では、さりげなく竹内まりやさんや夫・山下達郎さんの楽曲がBGMとして流れているのだとか。
一般の利用客はもちろん、ファンにとっても嬉しいおもてなしですよね。
竹内まりやの実家はお金持ち?
竹内まりやさんの実家の経済状況について調べてみました!
竹内まりやの実家は老舗旅館「竹野屋旅館」
竹内まりやさんの実家である老舗旅館「竹野屋旅館」。
初代から竹内まりやさんの兄である五代目までは、当主として「竹内繁蔵」の名を襲名しています。
竹野屋旅館は、1877年の創業から順調に客足を伸ばしてきました。
下の写真は、竹内まりやさんの祖父にあたる三代目・竹内繁蔵(本名:竹内栄蔵)さんと祖母・ハルさんです。
三代目・竹内繁蔵さんは、明治生まれながら野球に親しみ、弓道・英会話を習得し、ハイキング旅行を趣味にしていました。
当時の最先端のものを、積極的に取り入れる人物だったようですね。
三代目・竹内繁蔵さんのもと、竹野屋旅館は出雲大社の参拝客へのサービスで評判を呼び、県下でも有数の名旅館に成長します。
更に、三代目・竹内繁蔵さんは、町会議員に当選、商工会や旅館組合の幹部としても活躍。
また、鉄道が本格的に普及し、修学旅行生などの団体客や、戦時下では疎開児童を受け入れ、全国的な知名度も上昇しました。
そして、竹内まりやさんの父で四代目・竹内繁蔵さんは、町会議員を経て大社町町長・商工会副会頭・旅館組合長を歴任。
主に、三代目・四代目の頃に旅館としての規模が大きくなり、2人は地元の名士として名を馳せました。
竹内まりやは留学経験があり、慶應義塾大学が母校
竹内まりやさんは、1970年に島根県立大社高等学校進学。
大社高校時代はテニスに没頭していたのだとか。
高校2年生の9月から3年生の8月までの1年間は、アメリカ・イリノイ州のロックフォールズ にある公立校「ロックフォールズ高等学校」へ留学。
そして帰国後の1973年に、慶應義塾大学文学部へ進学(その後中退)されています。
1973年当時、女性の四年制大学への進学率は約10%程度でした。
それを踏まえると、竹内まりやさんはお嬢様育ちで、かなり恵まれた教育環境にあったことがわかりますね。
上記の情報を総合すると、竹内まりやさんのご実家はお金持ちの可能性が高そうです。
「竹野屋旅館」は料理とその佇まいが評判の宿で、一度は訪れてみたいものですよね。
竹内まりやの実家の両親(父・母)はどんな人?
竹内まりやさんの実家のお父さん、お母さんについても調べました!
竹内まりやの父親は旅館経営者で元町長!
竹内まりやさんの父で「竹野屋旅館」の四代目当主の竹内繁蔵さん。
「竹内繁蔵」の名前は当主に代々継がれるもので、父親の本名は明かされていません。
父・四代目竹内繁蔵さんは、1925年生まれで2021年7月11日に96歳で亡くなっています。
父・四代目竹内繁蔵さんは、旅館を旅館経営者としてその手腕を振るい、大社町の町会議員・大社町町長も務めました。
また、商工会副会頭・旅館組合組合長なども務め、名実ともに地元の名士として活躍。
当主の頃には、敷地西側に新館を増築し、皇族を迎える機会にも何度か恵まれたのだとか。
50歳となる1975年頃に五代目に当主の座を譲っているので、その頃本格的に政界へ進出されたと推測されます。
竹内まりやさんによると、父・四代目竹内繁蔵さんは囲碁、麻雀、映画、読書、ゴルフと多趣味で、歌も上手だったそう。
竹内まりやさんの歌の才能は、お父さん譲りなのかもしれませんね。
竹内まりやの母親は医師志望だった!
竹内まりやさんの母親に関する詳細な情報・写真は公開されていませんでした。
ご存命であれば、90歳代だと推測されます。
竹内まりやさんの母親は、山口県下関市出身。
医師を目指して大学に通っていましたが、四代目竹内繁蔵さんと恋に落ちて学生結婚!
母親も、恐らくは名家のお嬢様だったのではないでしょうか。
結婚後は2男4女の子ども6人をもうけ、竹野屋旅館の女将も務めました。
竹内まりやさんによると、母親はピアノが上手だったそう。
ここにも竹内まりやさんの音楽のルーツがありそうですね。
竹内まりやの兄弟姉妹も調査!
竹内まりやさんに兄弟や姉妹がいるかどうかも調査しました!
竹内まりやの兄弟は6人兄妹!!
竹内まりやさんは2男4女、6人兄妹の4番目・三女として生まれました。
順番は不明ですが、竹内まりやさんには兄1人・姉2人・弟と妹が1人ずついる、ということになりますね。
兄妹のうち、長男以外は一般の方のため詳細なプロフィールや写真は公開されていません。
ここでは長男・竹内信夫(五代目竹内繁蔵)さんについてご紹介します。
竹内まりやの兄・竹内信夫は竹野屋旅館を衰退させてしまった
竹内まりやさんの兄で、五代目竹内繁蔵こと竹内信夫(たけうちのぶお)さん。
プロフィールの概要は以下の通りです。
・1951年生まれの73歳(2024年時点)で竹内まりやさんの5歳上
・1975年頃、24歳の時に竹野屋旅館・五代目竹内繁蔵を襲名
・2016年10月に辞意を表明
・人柄は「神経質で横柄で、他人とのコミュニケーションが苦手、接客業に向かない」
・趣味はジャズと無線通信
・結婚披露宴を竹野屋旅館で開いた沢田研二と友人
兄・竹内信夫さんが当主を務めた平成の時代には、出雲大社で結婚式を行うカップルが増加。
それに合わせた披露宴が好評を博したそうです。
しかし、兄・竹内信夫さんの経営もとで、旅館の質も評判も大きく低下。
経営は傾き、有能な従業員の退職が重なったり、お家騒動も勃発するなど、険悪な空気になったのだとか。
また、長引く不況で落ち込む地元経済のために、旅館組合が大規模なホテルを共同経営する打開策が提案されたことがありました。
しかし、兄・竹内信夫さんひとりが反対したために実現せず、地域経済は一層の窮地に立たされます。
地元記者は、兄・竹内信夫さんの人柄を、
頭を下げることのできない人でした。神経質で、従業員にはいちいち細かいことで文句を言っていたようです。
としたうえで、
最後には竹野屋旅館の廃業案と売却案が取り沙汰される最悪の事態に陥ってしまった。(中略)兄弟姉妹の中でも比較的資金力のあったまりやが施設改装費用のほとんどを請け負った。
と、竹野屋旅館の窮地を竹内まりやさんが救ったことを明かしています。
なんと竹内まりあさん、竹野屋の事実上のオーナーになってしまったんですね。
竹内まりやさんは、しばらくの間、旅館の立て直しの為に音楽活動が完全休業状態に陥るほど多忙を極めました。
竹内まりやさんは両親への感謝と、自身が竹野屋旅館に何もしてあげられなかったという後悔とともに、
自分が音楽に興味を持ったのは彼(兄)の影響もある。自分(の人生)は本当に自由だったが、兄(の人生)は本当に不自由だった。
と、振り返っていたのだとか。
生まれながらに旅館の跡取りとしての人生が決まっていた兄と、自由に進路を選び音楽の夢を叶えた自身とを比べて、申し訳なさを感じていたんですね。
なお、兄・竹内信夫さんの退任後は、竹内まりやさんの一番上の姉の娘婿・丸尾聖治(まるおせいじ)さんが六代目経営者に就任。
竹内家としての実質的な経営は終わりを迎えました。
現在は、丸尾聖治さんは退任され、地元出身でIターンしてきた藤田憲治郎(ふじたけんじろう)さんが総支配人に就任。
紆余曲折はあったものの、「竹野屋旅館」として現在も営業できていることを、他の兄弟たちも喜んでおられることでしょう。
まとめ
今回は竹内まりやの実家は竹野屋旅館!父母の顔画像や兄弟姉妹もまとめた!
という事で、竹内まりやさんの実家や両親(父・母)、兄弟姉妹など家族についての記事をお届けしました。
- 竹内まりやの実家は島根県出雲市の竹野屋旅館で、お金持ちだった
- 竹内まりやの父・四代目竹内繁蔵は旅館経営者で元町長、母親は医師志望だった
- 竹内まりやは6人兄妹で、長男・竹内信夫は竹野屋旅館を衰退させてしまった
以上の内容がわかりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。